色々思うところがあったので、今日は日記ついでにこちらの記事について書こうと思う。
最新話を公開しました💐
20歳の時、一生隠し続けるのは無理だと悟った七崎さん。帰省中に母親にカミングアウトを決意するが……!?
ゲイであることを母親に打ち明けた結果……――マンガ『僕が夫に出会うまで』番外編(1) https://t.co/3jYAbUgVHu
— 文春コミック通信 @note記事も公開中 (@bunshun_comics) January 12, 2021
もともと腐女子であるわたくしは、「おっ♡」という好奇心とともに拝見したので「同性愛者をエンタメ感覚で見ている」ことを否定することはできない。という大前提のもと、セクシュアリティについて語ろうと思います。
「同性愛」は異常なものなのか?
私自身がどうなのか、というと、どうしても腐女子なので、非日常であったり禁忌、背徳感があるからこそ興奮する性癖を楽しむような、つまり当事者から見れば失礼極まりない部分はある。禁忌=社会的に許されていない からこそイイと思っているので、もし日本で同性での婚姻が法律的にゆるされてそれが「普通」になったら、今のようにキャーキャーと盛り上がることはなくなるのかもしれない。
でもそれとこれとは話は別で、「普通じゃない」かもしれないけどそれが「異常」で「否定したい」ものではない、という結論が自分の中で出ています。二次元と三次元の違いと言ってしまえばそれまでなのだけど、社会全体で後指さすような存在では少なからず、ないと思っています。「他と違う」ことが「異常」だとは思っていません。
日本は同調圧力がひどい。だからこそ、多数派のほうが「普通」でそれ以外が「異常」に位置付けられてしまう風潮があるので、そうなってしまうんだろうなと感じています。
主観と行動は分けたい
冒頭であげた記事のコメント欄に、否定的なものも多かった。「気持ち悪い」「(否定的に感じる)一般人が、悪みたいなのがおかしい」なんてのもあって、一理あるとも感じた。わたしでも、見目麗しい美青年やイケオジじゃなく、清潔感に欠けるルックスの人がいたとして、同性愛者の権利を声高に叫んでいるのを見たら同じように感じてしまう可能性はある。
でもよく考えるとそれは、別に同性愛者だからではなく、自分とは違う価値観の(見た目の配慮含む)人だったら同じように感じるのだから「同性愛者だから」ではない。
「自分がどう感じるか」が、否定的な意見だったとして、だから何??あなたがそう思うのは自由。ホモフォビアは自由。だって誰しも、心は自由なんですから。それをよしとするも悪いとするも自由なんですよ。近づかなければいいだけなんですよ。わざわざ本人に向かって否定を浴びせるのがおかしいだけなんです。
大人はとくに、自分の居場所を選べます。こどもより少なくとも、そうでしょう。だったら近づかなければいいだけなのになぜ「否定してもいい」と思ってしまうんだろう。
無理やり受け入れなくてもいいから、せめて距離をおけばいいだけ。
本題。もし子どもが同性愛者だったら
エンタメとして同性愛を楽しんできた私です。今現在もそうです。ちなみに、主人は「そんなことかんがえたくもない」と全否定だったんですが、
さて「我が子がLGBTだとカミングアウトされたら」……
②一時の迷いか、それともずっと悩んできたことなのかを確認する
③もし生来、同性にしか恋愛感情を「もてない」のであれば、よき理解者になりたい
④そうでないのなら、じっくり考えられる環境づくりを強力する
そんなところかな。
確固たる「原因」はない、「異常」ではない、だから否定はしない。混乱はするだろうけど、自分は味方になってあげたい。否定する意味がわからない。自分と違うことを、世間と違うことを、ネガティブにとらえたくない。
だって自分の人生と子どもの人生は別なんだからね~。何をどう言おうと最後に選ぶのは本人。娘の選んだ未来をサポートしてあげられたらいいなと、思っています。
幸せの定義は揺らいでいる
私の親世代の幸せって、結婚して家と車を所有して子どもを産み育てていい大学に入れる みたいなものだろうと思う。私も結構最近までそれが「世間一般でいうところの幸せ」だと思っていたところあります。
でもコロナ禍よりもっと前から、その定義は崩壊している。
子どもがいい大学入ったら幸せなの?とか、
そもそも子どもを産みさえすれば幸せなの?とか、
お金さえあればそれで幸せなの?とか…
どれも今の世の中の価値観に沿わない気がしています。就職しても結婚しても子どもを産み育てても、それが幸せでありそれがないと幸せじゃないなんてまったく思えない。
それなら、大好きだと思える相手と、手を取り合って生きる。そうできたらもうじゅうぶんなんじゃないだろうか。
それが同性だろうが、関係ないんじゃないだろうか。
誰か一人でもいい。
お互いが「自分を犠牲にしてでも相手を幸せにしてあげたい」と思える相手がいればもう、幸せなんじゃないだろうかー、と思います。
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